Japanese Christian Church of Tucson
教会の歴史
JCCT は一人の敬虔な日本人クリスチャン、吉谷礼子姉が1994年にカリフォルニア州のサンフェルナンドバレーホーリネス教会(北米ホーリネス教団所属教会、現在名はクロスウェイ教会)からツーソンに移って来られ、1995年3月に5人の姉妹の聖書を学ぶ家庭集会から始まった日本人教会です。1995 年9月30日には吉谷家にて第一回礼拝が行われ、50人余りの人々が集まりました。ロサンジェルスホーリネス教会の溝口俊治牧師、安藤ご夫妻(現在、安藤牧師)をお迎えし、「主はぶどうの木」と題して溝口牧師がメッセージをお取りつぎ下さり、安藤ご夫妻のリードで参加者一同、声高らかに主を賛美する恵みに感謝しました。又、同年12月2日にはサンフェルナンドバレーホーリネス教会の米本ロブ牧師をお迎えし、第二回礼拝が行われ、「神と砂漠」と題してメッセージをお取りつぎ頂き、ツーソンの美しい景色を見下ろすスカイラインカントリークラブに集まった111人の人々が感動の聖霊に満ち溢れた礼拝となり主に心から感謝しました。その後も吉谷家で聖書の学びや祈り会、教団から牧師をお招きして礼拝を続け、地域の教会をお借りしてクリスチャンコンサート集会なども積極的に行いコミュニティー福音伝道に心を注ぎました。それまでの礼拝は土曜日でしたが1996 年12月22日には第一回日曜礼拝が吉谷家で行われ思い出の日曜礼拝となりました。1997年3月30日からは、Pima County Medical Societyの場所で日曜礼拝が始まり、1999年7月から2004年まで本多一米牧師(現在はサンディエゴ日本人教会英語部牧師)が就任され、その後2006年5月から2011年7月まで 玄 仁牧師(現在はクロスウェイ日本人教会日語部牧師)が就任、2012 年3月から2020年2 月まで、川真田晃久牧師、2015年10月4日からは、Our Saviour's Lutheran Churchの中のKoch Chapelにて毎週、午前11時から日曜礼拝を行っています。詳しい歴史は下記やこのサイトの教会ブログをごらんください。
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ツーソン日本人教会 (Japanese Christian Community of Tucson -JCCT )
その始まりは、日本人のために交わりのグループを立ち上げなさいという神のコーリングを受けて、南カリフォルニアからツーソンに来た吉谷礼子姉に遡る。1995年3月に、5人の日本人女性が、バイブルスタディと交わりのために集まった。このコイノニア(ギリシャ語で「交わり」)グループには、この先大きくなっていくだろうと期待させる空気があった。日本人学生もどんどん加わっていった。主が、このグループを信仰者の群れへと導かれたのだった。Japanese Christian Community of Tucson (JCCT)という名前が選ばれた。興味深いことに、「教会」という言葉は使われず、代わりに「コミュニティ」という言葉が、このグループの始まりであった「コイノニア(交わり)」の意味を込め、協同の響きも持たせて選ばれた。1995年9月30日土曜日、第一回目の礼拝メッセージが、ロサンゼルス教会溝口牧師によって、吉谷姉宅で捧げられた。JCCTが正式に設立されたのだ。しかしながら、吉谷姉宅での最初の日曜日の主日礼拝がささげられるまでには、1996年12月22日を待たねばならなかった。3か月後、賃貸できる講堂がピマ郡メディカルソサエティの中に見つかり、最初の礼拝が1997年3月30日に行われた。
次の大きなステップは、専任の牧師を見つけることだった。北米OMSホーリネス教団に、牧師要請のリクエストがなされた。新任の専任牧師が選ばれるまでの長い期間、ホーリネス教団に属する教会の牧師や長老の方々がツーソンに来て、礼拝の説教をし、聖餐式、洗礼式や学びを行った。神は、献身の思いを持って仕える多くの兄弟姉妹を与え、1996年から1999年の間には、30名を超える驚くほど多くの受洗者が与えられた。
The Executive Council and Ministerial Appointment Committee,MAC)は、本多一米牧師をついに任命した。ロサンゼルス教会の副牧師だった本多牧師は、以前教会設立の手助けのためにツーソンを数回訪れていた。本多牧師は、2000年9月10日の任命式ののちツーソンで牧会を始めたが、この日は計らずもJCCTの5周年の創立記念日だった。本多牧師は2005年8月までの5年間牧会の労を取った。
JCCTは、二つの言語のみならず、二つの文化を反映したユニークなミニストリーを展開した。教団の中でも唯一、日本語と英語両方同時に説教がなされる教会となった。日本人学生の存在は、教会の中でも大きな割合を占めていたが、9・11の同時多発テロ事件の後、日本からの留学生は減り、結果JCCTでも日本人学生は減っていった。JCCTは、学生とふれあう機会を増やすため、大学の近くにある第一合同メソジスト教会の中の部屋を借りたり、本多牧師も大学の学生組合で、「ムスビ・タイム」という名の集会を持っていた。
本多牧師のミニストリーの終わりに向けて、2005年5月22日、創立10周年のお祝い会が持たれた。ツーソン内外からゲストも招かれた。サンファナンド教会の米本ロブ牧師がメッセージを語り、ポトラックランチが持たれた。全部で103人もの出席者があった。
本多牧師の離任とともに、東京聖書学院を卒業したての日本在住の在日韓国人玄仁牧師を次の牧師として選んだ。歳若く、牧師として初めての任務ということで、サンファナンド教会の鍵和田哲男牧師が指導に当たることとなった。
JCCTは、7か月ほど無牧の状態となった。鍵和田牧師は、2005年9月からは、月に一回以上は、日曜礼拝の説教や聖餐式を行い、その以外は月曜日ツーソンに来て翌日帰るというスケジュールが1月まで続けられた。鍵和田牧師は英語も日本語も堪能だったので、日英両方でメッセージがなされた。あとの日曜日の礼拝メッセージは、長老たちが行った。
玄牧師は、アメリカに来て最初の3か月間、サンファナンド教会にて鍵和田牧師指導の下で研修を受けた。2006年4月23日をもってその研修を終えた玄牧師は、その次の週の日曜日に最初の説教を行った。4か月後、玄牧師は日本に一時帰国し結婚。妻となった訓子(のり子)夫人と9月12日に戻った。3年後の2009年7月18日、玄牧師はJCCTにて行われた感動的な就任式で、正式に専任牧師となった。玄牧師の説教は日本語でなされたが、英語訳が大きなスクリーンで同時に映し出された。この工夫によって礼拝時間は短縮された。日本人の大学生たちは、第一合同メソジスト教会から借りている部屋で集まり続けていたが、2009年7月で賃貸を終わり、またバイブルスタディや祈祷会も玄牧師のアパートで行われるように変わっていった。
2011年3月27日には、JCCT創立15周年が祝われ、100人もの出席者があった。この希望に満ちたお祝い会のゲストスピーカーは本多牧師で、牧師家族と8人のサンディエゴ教会の信徒がともに出席した。
JCCTでの玄牧師の最後の日は、2011年の7月31日だった。5年間の牧会だったが、また7か月無牧となった。この引き継ぎ期間に、ツーソン在住の半引退されている 五島勝牧師や尾崎一夫牧師が、要望に応じて礼拝のご用を務めた。再度サンファナンド教会の米本牧師が手助けしたり、サンディエゴ教会の大倉信牧師がDVDに入れた日本語の説教を送り、三週連続でこのビデオメッセージで日曜礼拝が持たれた。長老たちも大きな働きをしたことは言うまでもない。
そこで牧師選び委員会が立てられ、2011年1月16日に、最初のミーティングが行われた。委員会は、川真田昇久牧師を選び、南加牧師会、シェパード委員会は、川真田牧師を教団所属牧師として迎え、正式に新しい専任牧師となった。「アキ」と呼ばれる川真田牧師は、フラー神学校の卒業生で、ロサンゼルスのウェストアダムスキリスト教会での暫定牧師、サンファナンド教会のユース担当牧師を経て、副牧の任についていた。その教会では、主任牧師の狭間ローランド牧師が指導に当たっていた。同じくフラー神学校の卒業生であったマンディ夫人と2012年3月に着任したアキ牧師は、活動を開始した。2012年3月25日には溝口俊治牧師の司式で就任式がされた。
アキ牧師は、英語で礼拝メッセージをし、部分的に日本語訳がスクリーンで映された。しかし2014年12月を境として、同時通訳されるように変わった。スクリーンは、必要に応じてのみ使用され、礼拝は、形式に沿ってというより流れを重視して進められた。
個々人がもっと教会の活動に加われるように、そして霊的に成長するようにと、スモールグループの方式が取り入れられた。男性対象のバイブルスタディが2013年1月から始まった。英語を話すリーダーたちのグループは、2013年に一年ほどミーティングがもたれ、英語を話す女性対象のスモールグループは、8か月ほど続いた。同年4月には、礼拝前の時間に、初心者のスモールグループの集まりも始まった。その間、日本語での女性対象バイブルスタディは、オロバレーと尾崎牧師の自宅で続けられていた。大学生のスモールグループは、エクイッパーのスモールグループとして始まったのだが、バイブルスタディと交わりの学生集会として、アキ牧師宅で続いていた。秋には、年一度の野外礼拝もカタリナステイトパークで行われた。ポトラックランチが用意され、ゲームや楽しい催しも企画された。
2015年8月、JCCTが18年間借りていた建物が売却されることになり、土壇場でアワーセイビアー・ルーテル教会から連絡が入り、その教会で一番初めに使われた礼拝堂だったコウクチャペルを貸してもらえるという申し出だった。JCCTは、午前11時から礼拝を持ち続けられることとなった。
2015年10月4日に、コウクチャペルにてJCCTの最初の礼拝がもたれ、2015年11月には、感謝礼拝後に昼食会と楽しい催しのお祝い会が行われた。2017年10月から2020年2月まで、月に一回、英語の礼拝と同時に信徒リーダーのメッセージで日本語の礼拝を続けた。その年月の間に少なくとも5人、数組の夫婦がフルタイムの献身者となって、日本に宣教に行ったり、伝道者となった。JCCTは、大勢の人の人生に深く関わり、ツーソンのみならず、日本においても大きな影響をもたらした。2020年2月23日の礼拝を最後にアキ牧師が離任し無牧となった今、神は新しいドアを開き、その約束を果たそうとされている。私たちが何をするか、ここからどこに向かうか。今、神は、信じる者たちの集まりであるJCCTにご計画をお持ちである。それを見て、探して、そして大切にし続けることが、私たちのチャレンジである。 - 吉谷礼子姉 OMS 北米ホーリネス教団100周年記念誌寄稿文より
その始まりは、日本人のために交わりのグループを立ち上げなさいという神のコーリングを受けて、南カリフォルニアからツーソンに来た吉谷礼子姉に遡る。1995年3月に、5人の日本人女性が、バイブルスタディと交わりのために集まった。このコイノニア(ギリシャ語で「交わり」)グループには、この先大きくなっていくだろうと期待させる空気があった。日本人学生もどんどん加わっていった。主が、このグループを信仰者の群れへと導かれたのだった。Japanese Christian Community of Tucson (JCCT)という名前が選ばれた。興味深いことに、「教会」という言葉は使われず、代わりに「コミュニティ」という言葉が、このグループの始まりであった「コイノニア(交わり)」の意味を込め、協同の響きも持たせて選ばれた。1995年9月30日土曜日、第一回目の礼拝メッセージが、ロサンゼルス教会溝口牧師によって、吉谷姉宅で捧げられた。JCCTが正式に設立されたのだ。しかしながら、吉谷姉宅での最初の日曜日の主日礼拝がささげられるまでには、1996年12月22日を待たねばならなかった。3か月後、賃貸できる講堂がピマ郡メディカルソサエティの中に見つかり、最初の礼拝が1997年3月30日に行われた。
次の大きなステップは、専任の牧師を見つけることだった。北米OMSホーリネス教団に、牧師要請のリクエストがなされた。新任の専任牧師が選ばれるまでの長い期間、ホーリネス教団に属する教会の牧師や長老の方々がツーソンに来て、礼拝の説教をし、聖餐式、洗礼式や学びを行った。神は、献身の思いを持って仕える多くの兄弟姉妹を与え、1996年から1999年の間には、30名を超える驚くほど多くの受洗者が与えられた。
The Executive Council and Ministerial Appointment Committee,MAC)は、本多一米牧師をついに任命した。ロサンゼルス教会の副牧師だった本多牧師は、以前教会設立の手助けのためにツーソンを数回訪れていた。本多牧師は、2000年9月10日の任命式ののちツーソンで牧会を始めたが、この日は計らずもJCCTの5周年の創立記念日だった。本多牧師は2005年8月までの5年間牧会の労を取った。
JCCTは、二つの言語のみならず、二つの文化を反映したユニークなミニストリーを展開した。教団の中でも唯一、日本語と英語両方同時に説教がなされる教会となった。日本人学生の存在は、教会の中でも大きな割合を占めていたが、9・11の同時多発テロ事件の後、日本からの留学生は減り、結果JCCTでも日本人学生は減っていった。JCCTは、学生とふれあう機会を増やすため、大学の近くにある第一合同メソジスト教会の中の部屋を借りたり、本多牧師も大学の学生組合で、「ムスビ・タイム」という名の集会を持っていた。
本多牧師のミニストリーの終わりに向けて、2005年5月22日、創立10周年のお祝い会が持たれた。ツーソン内外からゲストも招かれた。サンファナンド教会の米本ロブ牧師がメッセージを語り、ポトラックランチが持たれた。全部で103人もの出席者があった。
本多牧師の離任とともに、東京聖書学院を卒業したての日本在住の在日韓国人玄仁牧師を次の牧師として選んだ。歳若く、牧師として初めての任務ということで、サンファナンド教会の鍵和田哲男牧師が指導に当たることとなった。
JCCTは、7か月ほど無牧の状態となった。鍵和田牧師は、2005年9月からは、月に一回以上は、日曜礼拝の説教や聖餐式を行い、その以外は月曜日ツーソンに来て翌日帰るというスケジュールが1月まで続けられた。鍵和田牧師は英語も日本語も堪能だったので、日英両方でメッセージがなされた。あとの日曜日の礼拝メッセージは、長老たちが行った。
玄牧師は、アメリカに来て最初の3か月間、サンファナンド教会にて鍵和田牧師指導の下で研修を受けた。2006年4月23日をもってその研修を終えた玄牧師は、その次の週の日曜日に最初の説教を行った。4か月後、玄牧師は日本に一時帰国し結婚。妻となった訓子(のり子)夫人と9月12日に戻った。3年後の2009年7月18日、玄牧師はJCCTにて行われた感動的な就任式で、正式に専任牧師となった。玄牧師の説教は日本語でなされたが、英語訳が大きなスクリーンで同時に映し出された。この工夫によって礼拝時間は短縮された。日本人の大学生たちは、第一合同メソジスト教会から借りている部屋で集まり続けていたが、2009年7月で賃貸を終わり、またバイブルスタディや祈祷会も玄牧師のアパートで行われるように変わっていった。
2011年3月27日には、JCCT創立15周年が祝われ、100人もの出席者があった。この希望に満ちたお祝い会のゲストスピーカーは本多牧師で、牧師家族と8人のサンディエゴ教会の信徒がともに出席した。
JCCTでの玄牧師の最後の日は、2011年の7月31日だった。5年間の牧会だったが、また7か月無牧となった。この引き継ぎ期間に、ツーソン在住の半引退されている 五島勝牧師や尾崎一夫牧師が、要望に応じて礼拝のご用を務めた。再度サンファナンド教会の米本牧師が手助けしたり、サンディエゴ教会の大倉信牧師がDVDに入れた日本語の説教を送り、三週連続でこのビデオメッセージで日曜礼拝が持たれた。長老たちも大きな働きをしたことは言うまでもない。
そこで牧師選び委員会が立てられ、2011年1月16日に、最初のミーティングが行われた。委員会は、川真田昇久牧師を選び、南加牧師会、シェパード委員会は、川真田牧師を教団所属牧師として迎え、正式に新しい専任牧師となった。「アキ」と呼ばれる川真田牧師は、フラー神学校の卒業生で、ロサンゼルスのウェストアダムスキリスト教会での暫定牧師、サンファナンド教会のユース担当牧師を経て、副牧の任についていた。その教会では、主任牧師の狭間ローランド牧師が指導に当たっていた。同じくフラー神学校の卒業生であったマンディ夫人と2012年3月に着任したアキ牧師は、活動を開始した。2012年3月25日には溝口俊治牧師の司式で就任式がされた。
アキ牧師は、英語で礼拝メッセージをし、部分的に日本語訳がスクリーンで映された。しかし2014年12月を境として、同時通訳されるように変わった。スクリーンは、必要に応じてのみ使用され、礼拝は、形式に沿ってというより流れを重視して進められた。
個々人がもっと教会の活動に加われるように、そして霊的に成長するようにと、スモールグループの方式が取り入れられた。男性対象のバイブルスタディが2013年1月から始まった。英語を話すリーダーたちのグループは、2013年に一年ほどミーティングがもたれ、英語を話す女性対象のスモールグループは、8か月ほど続いた。同年4月には、礼拝前の時間に、初心者のスモールグループの集まりも始まった。その間、日本語での女性対象バイブルスタディは、オロバレーと尾崎牧師の自宅で続けられていた。大学生のスモールグループは、エクイッパーのスモールグループとして始まったのだが、バイブルスタディと交わりの学生集会として、アキ牧師宅で続いていた。秋には、年一度の野外礼拝もカタリナステイトパークで行われた。ポトラックランチが用意され、ゲームや楽しい催しも企画された。
2015年8月、JCCTが18年間借りていた建物が売却されることになり、土壇場でアワーセイビアー・ルーテル教会から連絡が入り、その教会で一番初めに使われた礼拝堂だったコウクチャペルを貸してもらえるという申し出だった。JCCTは、午前11時から礼拝を持ち続けられることとなった。
2015年10月4日に、コウクチャペルにてJCCTの最初の礼拝がもたれ、2015年11月には、感謝礼拝後に昼食会と楽しい催しのお祝い会が行われた。2017年10月から2020年2月まで、月に一回、英語の礼拝と同時に信徒リーダーのメッセージで日本語の礼拝を続けた。その年月の間に少なくとも5人、数組の夫婦がフルタイムの献身者となって、日本に宣教に行ったり、伝道者となった。JCCTは、大勢の人の人生に深く関わり、ツーソンのみならず、日本においても大きな影響をもたらした。2020年2月23日の礼拝を最後にアキ牧師が離任し無牧となった今、神は新しいドアを開き、その約束を果たそうとされている。私たちが何をするか、ここからどこに向かうか。今、神は、信じる者たちの集まりであるJCCTにご計画をお持ちである。それを見て、探して、そして大切にし続けることが、私たちのチャレンジである。 - 吉谷礼子姉 OMS 北米ホーリネス教団100周年記念誌寄稿文より