JCCT (Japanese Christian Church of Tucson)
ツーソン日本人教会
ツーソン日本人教会
牧師紹介 (2020年3月〜5月)
トム・リパ牧師を2020年3月にお迎えし、同年5月まで臨時採用牧師として当教会で牧会をしていただきました。トム牧師と奥様のジュリーさんは2016年3月からJCCTの教会に集われて、2018年から2019年にかけての1年間は当教会のホスピタリティー担当牧師としてもご奉仕していただきました。
トム牧師のお働きを主に感謝しますと共に、これからのご夫妻のミニストリーの上に神様の大いなる祝福が注がれますように共に祈りましょう。
トム・リパ牧師を2020年3月にお迎えし、同年5月まで臨時採用牧師として当教会で牧会をしていただきました。トム牧師と奥様のジュリーさんは2016年3月からJCCTの教会に集われて、2018年から2019年にかけての1年間は当教会のホスピタリティー担当牧師としてもご奉仕していただきました。
トム牧師のお働きを主に感謝しますと共に、これからのご夫妻のミニストリーの上に神様の大いなる祝福が注がれますように共に祈りましょう。
前任のあき牧師 (2012年3月就任から2020年2月までの8年間)
私たちの教会 JCCTは、2012年3月から2020年2月まで8年の長きに渡って川真田晃久(かわまた・あきひさ)牧師が主の愛、聖霊に満たされて献身的ミニストリーをしてくださいました。主に心より感謝します。今後はロサンジェルスに戻られて新しいお仕事に就かれます、これからも主に在る兄弟姉妹として新しい環境でのご夫妻の上に神様のお導きと豊かな祝福を共に祈りましょう。
私たちの教会 JCCTは、2012年3月から2020年2月まで8年の長きに渡って川真田晃久(かわまた・あきひさ)牧師が主の愛、聖霊に満たされて献身的ミニストリーをしてくださいました。主に心より感謝します。今後はロサンジェルスに戻られて新しいお仕事に就かれます、これからも主に在る兄弟姉妹として新しい環境でのご夫妻の上に神様のお導きと豊かな祝福を共に祈りましょう。
川真田牧師 略歴
パスター・アキはロサンジェルス郊外のサンフェルナンドバレーで育ち、1996年に友人を通して主イエス・キリストに出会ってから人生が変わった。20代は、サンフェルナンドバレー・ホーリネス教会(SFVHC)に出席して奉仕を続けた。
その後、フラー神学校で学びながら、 SFVHC教会のインターン牧師として仕え、後に同教会の学生牧師として、高校生、大学生、青年の牧会を続けた。
2010年4月にマンディと結婚。そしてフラー神学校修士課程修了後はロサンジェルスの旧ウェストアダムス・クリスチャン教会の臨時牧師として牧会をし、2012年3月、ツーソン日本人教会に牧師として就任。
パスター・アキが最も情熱を注ぐのは、イエスさま、マンディ、教会、伝道、癒し、そしてバスケットボール。
その後、フラー神学校で学びながら、 SFVHC教会のインターン牧師として仕え、後に同教会の学生牧師として、高校生、大学生、青年の牧会を続けた。
2010年4月にマンディと結婚。そしてフラー神学校修士課程修了後はロサンジェルスの旧ウェストアダムス・クリスチャン教会の臨時牧師として牧会をし、2012年3月、ツーソン日本人教会に牧師として就任。
パスター・アキが最も情熱を注ぐのは、イエスさま、マンディ、教会、伝道、癒し、そしてバスケットボール。
あき牧師のブログの日本語訳
5/4/2018
健康な教会:小さな教会の目を通して
エペソ教会への手紙(ヨハネの黙示録2章:1-7節)
ヨハネの黙示録では、イエスは七つの教会を扱っており、言及されている最初の教会はエペソです。エペソの教会についてイエスが言わなければならないことを読んでいくと、それはいくつかのことがうまくいったことが解かります。しかし、この教会の長所と短所を見る前に大事なことは、七つのすべての教会宛てにイエスは同じように始めて、同じように終わります。イエスは、教会に特有の啓示で始めます。イエスは、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」という言葉と、約束で終わります。イエスはこれらの事柄を緒教会に宛てて言っておられるのですが、この御言葉は、私たち自身の生活や、教会にも適用できることだと解ります。御霊が諸教会(複数形)に伝えていることを聞く耳がある者のためです。
エペソにある教会に、イエスは右手に七つの星を持つ方、七つの金色の燭台の間を歩く方として自分自身を明らかにします。なぜこのようにイエスが自分自身をエペソに啓示するのかを確実に言うことは難しいのですが、おそらくメッセージとメッセンジャーが申し分なく同一のものであるからだと言えるでしょう。メッセージを伝えているのはイエスさまなので、それは確かなことだとわかっています。また、イエスさまが教会に自分自身を明らかにする方法は、教会の召しと目的に関連しているかもしれません。例えば、エペソはイエスの手足と呼ばれたかもしれません、しかし七つの星を持ち、七つの金色の燭台の間を歩くイエスさまの福音のメッセージを守るという点で、七つの星は七つの教会のメッセンジャー/天使であり、燭台は七つの教会である。健康な教会は、その大きさにかかわらず、イエス独特の人格化された啓示を持つべきです。一般的なイエスではなく、一般的な使命や目的ではありません。地域の教会は他の教会が何をして、何を言っているのか、ただ単にそれと同様にするのではなく、教会はイエスに目を留め、イエスに与えられた啓示から学ばなければなりません。それは私たちがお互いから学ぶことができないと言っているわけではありません、私たちは、生きた神様の使命を果たすために、形式や公式だけに頼ることはできません。
エペソの教会は多くの良い行いをしました。それを集約すると、彼らは懸命に働き、悪を憎み、本当の気骨を持っていた。イエスはエペソ教会の善行と勤勉を褒めました。私はこの二つにニュアンスの違いがあるかどうか、はっきりとはわかりませんがおそらく、それは宣教師とミッションのチームとの違いのようなものでしょう。 一方は、人々の魂の救いと変革のために苦労しながら、他方は人々のすぐに必要としているものをまず満たしています。いずれにせよエペソの人たちはこれらを信仰によって忠実に行いました。彼らはただ一時的だけではなく、この地域で続けて奉仕に務めました。教会は良い働きと行いのために召命を受けて、創造されています。私たちは、無限の娯楽を通して単に人生を楽しむために救われたのではなく、他の人に仕えるために、天の御国での素晴らしい道へ向かうために救われています。もちろん、私たちは救われるために仕えるのではなく、私たちは永遠の命を持つお方に仕えるために救われています。健康な教会は、他者に奉仕する方法を絶えず探しています、実用的な手段だけではなく、他の人たちと人生を分かち合うことによってイエスの弟子となれるように助ける方法も探しています。
エペソの教会は教義的にも健全でした。彼らは悪を憎むことによってこのようになりました。エペソ教会内で指導者になろうとする者や特定の教えを提唱したり、ある種の伝統を導入しようとしたり、教会内で特定の文化を確立しようとした人たちがいたが、エペソ教会は一切そのようなことを認めなかった。悪を憎むことは簡単だと思われますが、実際は思うよりも難しいのです。これはおそらく、対立、虚偽であると主張し、イエスの名のための報復に耐えなければならないと主張する偽りの人々を暴露し、特定の行為の不寛容さがあったことを意味しました。あなた方はこれらの事をこんなにも良く行っている教会を見たことがありますか?エペソの人たちはそれを良く行っていました。私はすべてのことを、そしてすべての人を憎む教会を見たことがあるが、悪を憎むとはそういうことだとは言っていません。残念ながら、私はすべての事とすべての人を愛し、その過程で、神が憎むことを素朴に愛し、容認している教会を見ました(私たちはペルガモの教会とテアテラでこれを見るでしょう)。私たちが慎重でなければ、神が嫌うことを愛し、誤った教えや教師が教会に感染して機能不全や毒性の文化を創造してしまい、教会の衰退や死に至ることになります。健康な教会は、良いものを悪から見分け、良いものを堅く握りしめ、悪に対して立ち向かい追い出す勇気があるように自分たちを訓練してきました。
最後に、エペソの教会は私が真の気骨と呼ぶものを持っていました。彼らは良い働きと、善き行いを堅持し、忍耐強く、イエスの名のための苦難に耐え、疲れ果てる事はなかった。もしあなたが長年のキリスト教徒であれば、この道のりは短距離競走ではなく長距離競走であることを知っています。あなたが最初に何か新しいものを始めたときには、生きがい、希望、そして熱意で満ちていましたが、やがて新しいものは古いものになり、心踊るようなことがもはや世俗的になり、熱意に満ちていたことにも疲れ果ててしまいます、しかし、エペソ人にとってはそうではなかった。彼らは世界級の長距離競走者の耐久力を持っていて、彼らの生活の中で、彼らの行動、態度の中でそれを示したと私は確信します。たとえ物事が困難になったとしても、真のイエスの使徒であり、誰からか邪悪な報告があったとしても、彼らが耐えなければならなかったすべてにおいて、彼らは疲れ果ててしまう事がなかった、たとえ教義についての争いがあったとしても、辛抱強く耐えぬいた。イエスにある信仰は彼らの日々の生活の中でより一層忠実になり、イエスはその事に気付きました。健康な教会は、もし予期しないことに人生の大風、大雨や嵐が来ても、イエス・キリストの岩の上に家を建てたので、それを守り続けます。もし私たちが注意を払わなければ、植えられたものの30倍、60倍、100倍の収穫をもたらす素晴らしい実を結ぶ木々になる前に、信仰の種を放棄するのが早すぎるということにもなり得ます。信仰が現れるのを見るには、忠実でなければなりません。健康な教会は、良い時も、悪い時もどんな状況に置かれてもそれらを通して学び、耐え忍ぶことができます。
次回もエペソの教会を通して学びを続けますが、みなさんがその間に、自分の人生と、教会のこれらの三つの分野でどのようにやっているのかを考えてみることはとても良い事だと思います。それでは次回まで。
神様の祝福を祈ります!
健康な教会:小さな教会の目を通して
エペソ教会への手紙(ヨハネの黙示録2章:1-7節)
ヨハネの黙示録では、イエスは七つの教会を扱っており、言及されている最初の教会はエペソです。エペソの教会についてイエスが言わなければならないことを読んでいくと、それはいくつかのことがうまくいったことが解かります。しかし、この教会の長所と短所を見る前に大事なことは、七つのすべての教会宛てにイエスは同じように始めて、同じように終わります。イエスは、教会に特有の啓示で始めます。イエスは、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」という言葉と、約束で終わります。イエスはこれらの事柄を緒教会に宛てて言っておられるのですが、この御言葉は、私たち自身の生活や、教会にも適用できることだと解ります。御霊が諸教会(複数形)に伝えていることを聞く耳がある者のためです。
エペソにある教会に、イエスは右手に七つの星を持つ方、七つの金色の燭台の間を歩く方として自分自身を明らかにします。なぜこのようにイエスが自分自身をエペソに啓示するのかを確実に言うことは難しいのですが、おそらくメッセージとメッセンジャーが申し分なく同一のものであるからだと言えるでしょう。メッセージを伝えているのはイエスさまなので、それは確かなことだとわかっています。また、イエスさまが教会に自分自身を明らかにする方法は、教会の召しと目的に関連しているかもしれません。例えば、エペソはイエスの手足と呼ばれたかもしれません、しかし七つの星を持ち、七つの金色の燭台の間を歩くイエスさまの福音のメッセージを守るという点で、七つの星は七つの教会のメッセンジャー/天使であり、燭台は七つの教会である。健康な教会は、その大きさにかかわらず、イエス独特の人格化された啓示を持つべきです。一般的なイエスではなく、一般的な使命や目的ではありません。地域の教会は他の教会が何をして、何を言っているのか、ただ単にそれと同様にするのではなく、教会はイエスに目を留め、イエスに与えられた啓示から学ばなければなりません。それは私たちがお互いから学ぶことができないと言っているわけではありません、私たちは、生きた神様の使命を果たすために、形式や公式だけに頼ることはできません。
エペソの教会は多くの良い行いをしました。それを集約すると、彼らは懸命に働き、悪を憎み、本当の気骨を持っていた。イエスはエペソ教会の善行と勤勉を褒めました。私はこの二つにニュアンスの違いがあるかどうか、はっきりとはわかりませんがおそらく、それは宣教師とミッションのチームとの違いのようなものでしょう。 一方は、人々の魂の救いと変革のために苦労しながら、他方は人々のすぐに必要としているものをまず満たしています。いずれにせよエペソの人たちはこれらを信仰によって忠実に行いました。彼らはただ一時的だけではなく、この地域で続けて奉仕に務めました。教会は良い働きと行いのために召命を受けて、創造されています。私たちは、無限の娯楽を通して単に人生を楽しむために救われたのではなく、他の人に仕えるために、天の御国での素晴らしい道へ向かうために救われています。もちろん、私たちは救われるために仕えるのではなく、私たちは永遠の命を持つお方に仕えるために救われています。健康な教会は、他者に奉仕する方法を絶えず探しています、実用的な手段だけではなく、他の人たちと人生を分かち合うことによってイエスの弟子となれるように助ける方法も探しています。
エペソの教会は教義的にも健全でした。彼らは悪を憎むことによってこのようになりました。エペソ教会内で指導者になろうとする者や特定の教えを提唱したり、ある種の伝統を導入しようとしたり、教会内で特定の文化を確立しようとした人たちがいたが、エペソ教会は一切そのようなことを認めなかった。悪を憎むことは簡単だと思われますが、実際は思うよりも難しいのです。これはおそらく、対立、虚偽であると主張し、イエスの名のための報復に耐えなければならないと主張する偽りの人々を暴露し、特定の行為の不寛容さがあったことを意味しました。あなた方はこれらの事をこんなにも良く行っている教会を見たことがありますか?エペソの人たちはそれを良く行っていました。私はすべてのことを、そしてすべての人を憎む教会を見たことがあるが、悪を憎むとはそういうことだとは言っていません。残念ながら、私はすべての事とすべての人を愛し、その過程で、神が憎むことを素朴に愛し、容認している教会を見ました(私たちはペルガモの教会とテアテラでこれを見るでしょう)。私たちが慎重でなければ、神が嫌うことを愛し、誤った教えや教師が教会に感染して機能不全や毒性の文化を創造してしまい、教会の衰退や死に至ることになります。健康な教会は、良いものを悪から見分け、良いものを堅く握りしめ、悪に対して立ち向かい追い出す勇気があるように自分たちを訓練してきました。
最後に、エペソの教会は私が真の気骨と呼ぶものを持っていました。彼らは良い働きと、善き行いを堅持し、忍耐強く、イエスの名のための苦難に耐え、疲れ果てる事はなかった。もしあなたが長年のキリスト教徒であれば、この道のりは短距離競走ではなく長距離競走であることを知っています。あなたが最初に何か新しいものを始めたときには、生きがい、希望、そして熱意で満ちていましたが、やがて新しいものは古いものになり、心踊るようなことがもはや世俗的になり、熱意に満ちていたことにも疲れ果ててしまいます、しかし、エペソ人にとってはそうではなかった。彼らは世界級の長距離競走者の耐久力を持っていて、彼らの生活の中で、彼らの行動、態度の中でそれを示したと私は確信します。たとえ物事が困難になったとしても、真のイエスの使徒であり、誰からか邪悪な報告があったとしても、彼らが耐えなければならなかったすべてにおいて、彼らは疲れ果ててしまう事がなかった、たとえ教義についての争いがあったとしても、辛抱強く耐えぬいた。イエスにある信仰は彼らの日々の生活の中でより一層忠実になり、イエスはその事に気付きました。健康な教会は、もし予期しないことに人生の大風、大雨や嵐が来ても、イエス・キリストの岩の上に家を建てたので、それを守り続けます。もし私たちが注意を払わなければ、植えられたものの30倍、60倍、100倍の収穫をもたらす素晴らしい実を結ぶ木々になる前に、信仰の種を放棄するのが早すぎるということにもなり得ます。信仰が現れるのを見るには、忠実でなければなりません。健康な教会は、良い時も、悪い時もどんな状況に置かれてもそれらを通して学び、耐え忍ぶことができます。
次回もエペソの教会を通して学びを続けますが、みなさんがその間に、自分の人生と、教会のこれらの三つの分野でどのようにやっているのかを考えてみることはとても良い事だと思います。それでは次回まで。
神様の祝福を祈ります!